祖父について
suugayuuuuです。
年が明けてから
自分の創作活動や趣味を発散する現場を失ったことからなるべく一日置きには書きたいな〜なんて思いつつも、仲間たちの計らいもあってライブやイベントもできて承認欲求が軽く満たされたりしたもんで、ついつい無精が出てしまったわけで全然書いておりませんでした。
正直
ブログに向いていない
というより、続けることに向いていない
それは恥ずかしく思います。
で
今回なぜ急にブログを更新したかといえば、
先日私の父方の同居している祖父が他界しまして。
急なことであまりの多忙の中ではありましたが、合間に仕事へ出て現実逃避しつつ過ごしておりました。正直悲しみより何より忙しさが勝つような状況ではありましたが、なんとか無事に葬儀を終えました。
いやあ…
同居家族って本当に大変だな
(喪主は父が務めたとはいえ)
私は祖父が嫌いだった。
自信家で傲慢で
「表舞台に立つ者が人間として上である」
という価値観を持つ人間だった。
家族へのモラハラも多かった。
父に対しては罵倒して育ててきたと言って間違いはないだろう。祖母に対しても、愛はあれど正直なところ家政婦のように便利使いしているようにみられる部分もあった。
祖父が仕事や人徳で成した功績は多々耳に入っている。本人が語りたがったし、その他の方からもたくさん聞かされてきた。
しかしそんなことはどうでもよく、自分の目に映る家庭での祖父は傲慢そのものだった。
祖父が老いていき、免許返納を余儀なくされ、運動不足から中距離の歩行もままならなくなったことを聞いた時、正直言ってざまあみろと思ってしまった。傲慢と怠惰が招いた結果だと思った。
それからも
介護される身となってからも
しおらしくしながらも、往年の傲慢さを見せることもあり、家族として大事に思いつつ人間としては軽蔑してきた。
そんな祖父に、文句も言いつつも私の奥さんは優しく接していた。祖父が喜ぶような食べ物を与えたり、祖父が喜ぶようなおやつを与えていた。
祖父は最期の数日、
大きい急変とはいえないものの食欲もなく
「こんなにも卑しい男が一口しか喉を通らない。情けない。申し訳ない」
と泣いていた。
早くよくなればと思いもしたし、
私もまた優しい言葉をかけた。
しかしそんな祖父は翌日目覚めなかった。
祖父の介護を通じる中で
私は何度も「面倒が大きくなる前に早く逝ってほしいものだ」と思ったし、奥さんに口にしたこともあった。
しかし
祖父がもう目を覚まさないとわかった時
私でさえ悲しさを覚えた。
奥さんは泣いていた。
葬儀は慌ただしく、
たくさんの親類が家を訪ねた。
逝去する前にも何度か訪ねてくれていた方々は、家族全体や嫁いできて間もない奥さんにも労いの言葉をくれた。泣きそうになった。
介護期間に入ってからはとんと世話にもこなかったくせに、遺族相手にわけしりを語る者もいた。
「貴様に何がわかる」
と何度も思った。
顔を出さない者達は
私の知らない昔の祖父を知っている。
それはありがたいことだ。
祖父は人の記憶に残ることを喜びにしてきた。承認欲求の塊だったのだから、私の祖父だなと思う。
だからこそそれはありがたいことだ
しかし彼らは今の祖父や今の我が家の有様を何も知らずにわけしりを語り、
あまつさえ毒とも取れるような言動をすることがあった。
心底腹立たしかった。
「貴様に何がわかる」
と何度も思った。
気づけば
私も奥さんも
祖父よりも、祖父を慈しむ上で美味しいところを取るかのように出しゃばってくる奴らへの憤りで満たされた。
家族全員で協力してきた介護なのに、私の母だけが尽力してきたかのように言われたり
家族全員で協力した結果の最期なのに、処置が悪かったのではないか?などと言われたり
介護期間に何の協力もしなかったくせに、いざ葬儀となって花の配色や配置に口を出してきたり
辛いながら不器用ながら協力してくれてきた父を悪く言うババアもいた。
「祖父の今を知らない奴が、祖父の過去や通説をダシに遺族にマウントを取る」
気づくと祖父が嫌いだったこととかどうでもよくなって、柔らかい気持ちになっていた。
その反面
そんな遺族への労いも無いクズに
形ばかりの笑顔と感謝を表現しなければならないこの 葬儀 というものに
心底心を痛めた数日間だった。
こんなにも疲弊して、
けれども私は最終的に祖父を嫌いになれなかった。死は人を美化させるが、そうだとしてもやはり嫌いないことに変わりはなかった。
冥福を祈りつつ
本当に大変だと思う気持ちを
書きなぐりたかったので書いた。
ありがとう祖父
立派になれるよう頑張ります。
バイバイ