優雅な日常をまだ恥ずかしく
2015年12月
まだ曳舟のジョニパ荘と呼ばれる賃貸の一軒家で、メンバーと今の奥さんと4人で住んでいた頃だった
仕事を終えて帰ってきた僕は、なんの流れかリビングでその年のM1グランプリを観ていた。
それまでの僕は
毎年M-1どころか
家に帰るとまずPCを立ち上げ、アニメを見ながら何か作業をして、散々夜更かしに興じた挙句、気づいたら寝ており、起きたら生きることへのモチベーションを著しく欠いた状態でコンビニへ朝飯を買いに行くような生活だ。
基本的にテレビは観ていなかった。また、テレビを見ないことをカッコいいと思っていた。
奥さんはTVのバラエティ番組が大好きだった。
僕はアニメ等は1人で見る派なので、
奥さんがTVをつけていたら、その時は興味がなくてもなるべく一緒に見るようにした。コミュニケーションとはそういうものだ。
そうなると自然とTVを見る機会が増える。
勿論その行動にはなんの問題もないが、最初はむず痒くて仕方なかったのを覚えている。変わっていくことに恥ずかしさを感じ、実際僕の生活環境は大きく変わることになった。
しかし変わったとはいえ順応するのにまだ時間がかかる。
少なくとも2015年の段階ではその環境に恥ずかしさやむず痒さを感じていたのもあり
「いや〜面白くねえな」
と、今考えても最低に痛い発言をしていた
その後2015年のM1見返して爆笑することになるんだが、その時も自分の当時の痛いスタンスが脳裏に蘇っては悪魔のように張り付いた。
実を言えば今でもむず痒く感じている。
お笑いは元々好きだし
トーク番組も好きだ
芸人さんのラジオもずっと聴いてきた
けどいまだに
バラエティ番組を見て、それについて呟いたりすることに恥ずかしさがまだある。
きっと僕の根底に
まだくすぶっているクソの部分が、テレビという俗にびったり浸ることをダサいものだと思っているのだ。
そんな恥ずかしさもありながら
もう気にしないことにした。
これは僕にとって大きい進歩だと思っている
だって去年も一昨年も
M1のあとの反省会とか後日談までどっぷり追いかけるくらい好きなくせに、カッコつけて隠す必要がない。僕はなんなんだ。
今日もべらぼうに笑ったわ
アホか
そうやって僕は少しずつ
「普通の暮らし」
へのリハビリを進めている
Trainspottingの冒頭のセリフに感化され、普通の暮らしをカッコ悪いと思い込んでいた僕。
「普通の暮らし」
順応してしまったら
もう音楽なんて作れないのでは?
その恐れから発信するのをずっと怖がっていたが、それもやめることにした。
なんなら
ジリ貧の
刹那的な
サブカル脳
だけで作られるような音楽…
むしろ今の自分が聴きたくないわ…
と思ってしまう。
かといって愛だの恋だの歌う自己満ポップスも未だに好きにはなれないが…
年齢や立ち位置に合った音楽をやればいいんだと思う。だから僕はDJも、自分が普段聴いてて気持ちいいことしかしない。いやそれはDJとしてはダメなんだろうけど、そもそもオファーなんてないんだしそれでいいと思っている。
そんな形でむしろリハビリに積極的になった僕は、土日の過ごし方をこう徹底している。
「優雅に過ごす」
午前中のうちに外出し、
素敵な店を探して朝昼兼用で食事を済ませ
家に帰って夕方までダラダラ過ごし、
夕飯を食べて早めに風呂に入り
その後また部屋でゆっくりする
これは僕が生活する中で
最も優雅な過ごし方だ
7年前の僕が見たら
「そんな暮らし方バチが当たりますよ!」
と言い出しかねないような過ごし方だ
しかし僕のリハビリはここからだ
「この優雅ルーティンを恥ずかしがらない」
これがリハビリだ。
インスタ映えをあれだけ疎ましく思っていた男がオシャレなお店で食事を写真に撮ってインスタに上げ、バラエティ番組をガッツリ見て
そんなのいまだに恥ずかしいっつの
しかし自分にそれをリハビリと言い聞かせ
なんとなく帳消しにしながら過ごしている。
いつか
自分の中で
これをリハビリと思わなくなった時、
サブカルクソ病院の病床を追われることになってしまうんだろうが、僕はずっと入院していたいので、だいぶごねるだろう。
ごねて、ごねて、
迷惑な患者だと陰口を叩かれながら
これをリハビリだと大義名分にしながら
恥ずかしながら優雅に過ごしていきたい
それを面白く伝えるのが
今の自分の目指すところである。