恐ろしく日常
日常がやってきた
日常というものの神髄だ。
日常はマイナーチェンジされつつも
なにも変わらずにそこにある
今仕事関係の大きい山場を終えたので、一人ウィニングランのごとく気持ちのロスタイムをブログという形でここに叩きつけているところだが、正直この仕事を業務時間内にやらせてもらえないことにいまだ納得はいっていないが、こうやって恩を売ってすぐに塗り替えてやるという野心も少なからずあるのでとりあえず腐らずにやった。
とはいえここ最近ブログを書けずにいたのは忙しかったからではない
日常という普遍的な価値観に、勝手に溺れた結果だと今は思っている。
インプットが無いということもない。
Ásgeirの新譜も、King Kruleの新譜も、Isobel Campbellの新譜も、Skillkillsの新譜もすばらしかったし、ドロヘドロもとある科学の超電磁砲Tもちゃんと素晴らしい。ヒーリングっどプリキュアに癒され、約束されたようにキュアスパークルと平光ひなたに心底心惹かれ、「あざとイエローにわかりやすく釣りあげられるオタク笑える」とか斜に構えて見てるバカに心底嫌悪し、映像研には手を出すなは手を出したものの進んでいないが、ラジオもたくさん聴いて精神を落ち着けているし・・・
しかしそれもこれもどれもこれも日常に埋もれていった。
僕は日常を面白く切り取ることを目標としたが
あまりにもそれが日常の深淵に迫ると、それを切り取ることすらもできなくなっていく。それほどに僕は中途半端な位置にいた。
日常という小さい箱をインナーワールドに取り込んで大きく展開することに長けた語り手は僕の中で伊集院光さん。
日常という小さい箱の小ささを笑いにすることに長けた語り手は僕の中で岩井勇気さん。
僕は日常をインナーワールドに取り込んで、そのままフリーズした感じで日々を過ごしていた。難しいものだ。
脳みそが活動をとにかく嫌がる。ウィンターブルーは速度を増してさらにさらにタチが悪いものになっていく。そして僕は気づくとシャニマスをひたすらにプレイする。心無くシャニマスする。
「自分の軸になる趣味や好きなものをやる気がなくなったら危険シグナル。転職を考えたほうがいい。」
twitterでこのような言葉を見かけることがある。
しかしながら僕は本来やりたい趣味やそのものはある程度享受できている。きっとできている。何より今一番楽しい「食事」を楽しめている。バラエティ番組も今や楽しんで見ている。アニメも無理することなく好きなものを適量摂取する。
しかしそれを「言語化する」「文章化する」という行動が億劫になっていく。自分としてはかなりライフワークでもありリハビリでもあるこの行動にどんどん億劫になる。
こんなんでいいのか?と思っては頭の中でバックスペースを叩いている。
これは危険シグナルなのだろうか。
そんな押し問答が昼夜繰り返される脳内とは反して穏やかに日常は進んでいく。
つい先日、久しぶりに友人と遊んだ。
奥さんと友人と3人で車で外出。
「たまにはいいよね」と
マクドナルドでジャンクなブランチに興じた。
その後僕の家で少しだらりと過ごす。
この時間こそ欠かせない。これを間に挟むだけでリラックスしたぞというある種達成感を得られる。
僕達は「ドロヘドロ」をたんまり鑑賞し、
その後温泉施設へ向かった。日曜ということもあり年寄りで混雑しており、外気浴は風ひとふきで整うほどに寒く、しかしながらしっかり3セット堪能。そのまま友人のいきつけの焼き鳥屋へ向かい、そこでしこたま飲み食いして上機嫌で帰った。
焼き鳥屋のトイレには
愛され若手従業員の身内向けないじり文の掲示物が貼られており
「あ~これこれ。この感じ」
あんなにも嫌っていたこのノリをなんだか優しい眼で見ることができていた
twitterに溢れかえるヘイトを浴び、日常にほだされ、
気づけばただただ漂っている気がした。
こうやってあらためて胸中を文章化すると、
こんなにも日常を生きているのにむしろヤヴァイ人になっていっているような
世間的な日常感を逆行してしまっているような。
身体は正しいコースを進んでいるのに、心は逆走しているかのような
あらためて今文章にしながらそんな状態を面白く感じ始めてきた。
この日久しぶりに酒に酔いながら
いつもなら周囲にメンチ切ってイライラするような
ガヤガヤとした店内に「いやあいい店だね」と漏らすほど
そんな自分を客観的に見て、自戒するばかりであった。
というわけで
これからは日常へのひねくれを排し
身を任せ、面白さを探していこうと再度思い直しました。
世間はウイルスで持ち切りだが、僕は日常と再度向き合っていこうと思います。
うんこ