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JOHNNYPARKというバンドでvo、たまにdjやります。現在は新潟在住

謎のタピオカ

インスタ映え

ハロウィン

TikTok

チーズダッカルビ

タピオカ

 

兼ねてから我々ひねくれ男子が忌み嫌うこのような要素は、

「動機がみんなやってるから、いいね!が欲しいからと承認欲求に盲目になり、結果盲目なあまり周囲への迷惑を軽視しがちなコンテンツ」

とどのつまり端的に言い換えれば

「チャラついててなんかいけすかない」

の代表的なアイテムたちである

 

「女子の間で大流行!」

この言葉を聞くや否や、

我々ひねくれ男子は装備を整え、補助系の魔法を自分にかける。

そしてため息を1つついた後、

何が大流行かとばかりに否定し、

「中身がない」

「インスタのためにやってんだろ」

とヤジを飛ばすことが、もはやお約束のようになっている。

 

ひねくれ男子の特徴として、

自分が没頭するものには無理矢理にでも理由や動機付けによる「本気度の担保」をしたがるものなので、

「なんかいい感じだから」

という浮ついた考えを嫌う人が多いのはとてもよくわかるし、なんなら僕はそのまさに円内にいると言ってもおかしくないと思う。

 

ただ、ひねくれ男子は常に「俺は群衆心理に埋没しない」というアンテナも持っているので、上のクソ項目に噛みつく人達が増えていけば行くほど

「もう俺そこのステージじゃないわ。」

とばかりに一歩引いて、むしろ肯定的になっていったりするものだ。

 

僕もまたその1人で

上の項目で言えばタピオカにはそこまで嫌悪感を感じなくなってきていた。なぜかと言えばタピオカを片手に持ってヘラヘラ歩いている若者や、そのゴミをその辺に放置する様などを見る機会がそこまでないからだ。

 

これは田舎に住んでいるからというのもある。

そして何より

かわいい声優さんが、気恥ずかしそうにタピオカを飲んだことをインスタグラムなどに上げていたりしているのを見ると、何を頭ごなしに怒っていたのだろう?もはやチャラい人以外にも国民的に人気があるものに対して目くじら立てなくてもいいのでは?だって女性声優さんがやってるんだからもういいじゃんそれは

と情報は修正されていくのだ。

 

僕は声優さんのインスタグラムが好きだ。

Twitterとは違う魅力が伝わってくるし

Twitterとは違い大喜利コメントで爪痕残してやろうみたいなクソ野郎もあまり目につかない作りになっているので見やすい。

特に井口裕香さんのインスタグラムが好きだ

 

これに関しては個人間で認識は違うかもしれないが、僕が見る限り井口裕香さんは良い意味で「声優さんっぽくない日常」を感じさせる投稿が多くて、井口裕香さんの声優さんっぽくない日常に触れるたびに、肌の露出とか関係なしに 

「なんかエロい…」と思って

とりわけ興奮してしまうのだ。

 

これは至って個人的な認識だ

 

僕は井口裕香さんのインスタグラムを、「高校時代の少しエロい先輩」というフィルターに通して、限りなく性的と言える目で楽しんでいるのだが

 

僕は井口裕香さんのインスタグラムを、「高校時代の少しエロい先輩」というフィルターに通して、限りなく性的と言える目で楽しんでいるのだが

 

そんな井口裕香さんがタピオカを当たり前に飲み、それをインスタにあげている以上

僕にいちいちタピオカ側まで乗り込んで文句を言う意味は無いと。そう考えている。

 

 

少し前の話だが

新潟市内で営業していた午後の日だった

週2回ほど訪れる取引先へ向かう途中、1Fのシャッターが閉まった二階建てのビルがあった。シャッターの向こうで出店用のテナント工事中と思われ、シャッターの横には

「謎のタピオカ」

と書いた板が立てかけてあった。

 

ん?

なんだろう

 

そう思って眺めていたのだが、

それから3週間その地を訪れるたびにその板を見かけることになった。

 

推測すると「はは〜ん…ここはこれからタピオカ屋ができるテナントだな」

となりこの話は完結し、開店という名の答え合わせを待つのみとなったはずだったのだが

 

何度もそこを通るたびに

この板を置いた側の思考にまで思いが巡ってしまい、この「謎のタピオカ」という文言に

僕の小さいひねくれ心が引っかかっていった。

 

こいつら「謎のタピオカ」

とだけ書いた板を置いておくことで、

「何やら意味深な看板発見…!謎のタピオカ…どんなタピオカなんだ😂

#タピオカ #謎 #🤔 #謎のってなんやねん #これからいつメンでカラオケ #煮汁」

 

とかいう文言とともに写真が投稿されて、オープン前から口コミで話題となることを狙っているのでは…?

 

その思考につながるようになってからというもの、そこを通るたびにシャッターの奥で

「あの板絶対口コミ集まると思ったんだよな〜」

というような話をへらへらと語り、発案者がしたり顔でタピオカ吸ってるところまで頭によぎってしまうようになった

 

地元の世間知らずで、しかし背伸びしたい盛りの若い女の子がその板の写真を撮って、グループラインに送って盛り上がったらインスタグラムに軽薄な文を添えて投稿し、そこに輪をかけてキツい大喜利のようなコメントがついているところまで想像してしまう

 

心の中がドリップコーヒーのように抽出された純度の高いひねくれで満たされていった

 

今ではそのお店はオープンして、

若者が嬉しそうにタピオカを持ってそのお店から出てくるのを眺めながら取引先に行く日々となった。微笑ましい光景だ。

まるでそんな板の存在覚えているのも僕だけかのように、悪目立ちもせず、飲みたい人がそこへ行ってタピオカを飲む。そこに悪意など湧きようがないのだ。

僕はというと、その板時代に抱いたひねくれをそのままラップして心の奥に押し込んだわけなので、結果小さいしこりは残った。

 

そしてまたタピオカを見て

井口裕香さん…

と思えばこそ、ひねくれきれない部分もあり

気づけば井口裕香さんは僕の「タピオカひねくれリミッター」となっていた。

このように自分がかっこつけるためになんとなくタピオカを否定しない設定をしてしまった状況から

 

このなんともいえない気持ちも含めて

僕はやっぱりこれらのチャラついた文化と

これからもなんらかの折り合いをつけながら

謎の付き合いをしていくことになるだろう。

 

結果何が言いたいかと言うと

うんこ

 

僕なんかの日常より

井口裕香さんの日常を見てうっとりする方が、よっぽど精神衛生上良い。

ということだ

 

優雅な日常をまだ恥ずかしく

2015年12月

まだ曳舟のジョニパ荘と呼ばれる賃貸の一軒家で、メンバーと今の奥さんと4人で住んでいた頃だった

 

仕事を終えて帰ってきた僕は、なんの流れかリビングでその年のM1グランプリを観ていた。

 

それまでの僕は

毎年M-1どころか

家に帰るとまずPCを立ち上げ、アニメを見ながら何か作業をして、散々夜更かしに興じた挙句、気づいたら寝ており、起きたら生きることへのモチベーションを著しく欠いた状態でコンビニへ朝飯を買いに行くような生活だ。

基本的にテレビは観ていなかった。また、テレビを見ないことをカッコいいと思っていた。

 

奥さんはTVのバラエティ番組が大好きだった。

僕はアニメ等は1人で見る派なので、

奥さんがTVをつけていたら、その時は興味がなくてもなるべく一緒に見るようにした。コミュニケーションとはそういうものだ。

そうなると自然とTVを見る機会が増える。

勿論その行動にはなんの問題もないが、最初はむず痒くて仕方なかったのを覚えている。変わっていくことに恥ずかしさを感じ、実際僕の生活環境は大きく変わることになった。

 

しかし変わったとはいえ順応するのにまだ時間がかかる。

少なくとも2015年の段階ではその環境に恥ずかしさやむず痒さを感じていたのもあり

 

「いや〜面白くねえな」

と、今考えても最低に痛い発言をしていた

 

その後2015年のM1見返して爆笑することになるんだが、その時も自分の当時の痛いスタンスが脳裏に蘇っては悪魔のように張り付いた。

 

実を言えば今でもむず痒く感じている。

お笑いは元々好きだし

トーク番組も好きだ

芸人さんのラジオもずっと聴いてきた

 

けどいまだに

バラエティ番組を見て、それについて呟いたりすることに恥ずかしさがまだある。

きっと僕の根底に

まだくすぶっているクソの部分が、テレビという俗にびったり浸ることをダサいものだと思っているのだ。

 

そんな恥ずかしさもありながら

もう気にしないことにした。

これは僕にとって大きい進歩だと思っている

 

だって去年も一昨年も

M1のあとの反省会とか後日談までどっぷり追いかけるくらい好きなくせに、カッコつけて隠す必要がない。僕はなんなんだ。

 

今日もべらぼうに笑ったわ

アホか

 

 

そうやって僕は少しずつ

「普通の暮らし」

へのリハビリを進めている

Trainspottingの冒頭のセリフに感化され、普通の暮らしをカッコ悪いと思い込んでいた僕。

 

「普通の暮らし」

順応してしまったら

もう音楽なんて作れないのでは?

その恐れから発信するのをずっと怖がっていたが、それもやめることにした。

なんなら

ジリ貧の

刹那的な

サブカル

だけで作られるような音楽…

むしろ今の自分が聴きたくないわ…

と思ってしまう。

 

かといって愛だの恋だの歌う自己満ポップスも未だに好きにはなれないが…

年齢や立ち位置に合った音楽をやればいいんだと思う。だから僕はDJも、自分が普段聴いてて気持ちいいことしかしない。いやそれはDJとしてはダメなんだろうけど、そもそもオファーなんてないんだしそれでいいと思っている。

 

そんな形でむしろリハビリに積極的になった僕は、土日の過ごし方をこう徹底している。

 

「優雅に過ごす」

 

午前中のうちに外出し、

素敵な店を探して朝昼兼用で食事を済ませ

家に帰って夕方までダラダラ過ごし、

夕飯を食べて早めに風呂に入り

その後また部屋でゆっくりする

 

これは僕が生活する中で

最も優雅な過ごし方だ

 

7年前の僕が見たら

「そんな暮らし方バチが当たりますよ!」

と言い出しかねないような過ごし方だ

 

しかし僕のリハビリはここからだ

「この優雅ルーティンを恥ずかしがらない」

これがリハビリだ。

 

インスタ映えをあれだけ疎ましく思っていた男がオシャレなお店で食事を写真に撮ってインスタに上げ、バラエティ番組をガッツリ見て

 

そんなのいまだに恥ずかしいっつの

 

しかし自分にそれをリハビリと言い聞かせ

なんとなく帳消しにしながら過ごしている。

 

いつか

自分の中で

これをリハビリと思わなくなった時、

サブカルクソ病院の病床を追われることになってしまうんだろうが、僕はずっと入院していたいので、だいぶごねるだろう。

 

ごねて、ごねて、

迷惑な患者だと陰口を叩かれながら

これをリハビリだと大義名分にしながら

恥ずかしながら優雅に過ごしていきたい

 

それを面白く伝えるのが

今の自分の目指すところである。

 

 

僕の人生には事件が起きない

昨日久しぶりにブログを書いた。

 

何に対しても言えることだが、

基本的に世の中は

何かを続けることが美徳とされ、

それは美観云々とはまた関係なく

確かに続けた方が訴求効果も地力もつく

わかっている

 

しかし

僕はとてつもなく飽きっぽい性格だった。

進研ゼミの勧誘漫画に出てくる主人公が

必ずしも母親に言い放たれる

「あんた今まで何やっても続かなかったじゃないの。無理よ」

のまさに典型的なタイプだ。

 

ゲームはやり始めると

短期間で睡眠時間度外視でやりこんで、

ある程度のところで飽きて止めることが多く

色んなことに手をつけては

突き詰めるまでいかずに停滞することが多い。

 

ブログなどまさに現在ではその際たるもので

Twitterで日常を描きながら

目を引く内容の濃いブログを書きたい」

 

などという願望も

自分の飽きっぽい性格にしっかりと阻まれていった。

 

うだうだしている間に

僕を取り巻く環境はなんとなく変化していき、

昨日書いたように

僕にはTwitterで簡易的に呟きたいような日常

というものが無くなっていった。

 

そうやって不貞腐れいたこの頃、

Twitterで見かける記事や芸人さんのラジオなんかを聴いていく中で気になった本が

 

お笑いコンビ、ハライチの岩井勇気さんが小説新潮で連載していたコラムを本にした

 

「僕の人生には事件が起きない」

だった。

 

 

僕は正直小説をあまり読まない。

全く読まない人よりは読むが、

多く読む人よりは読まない。

また普段車移動がほとんどで、家にいてもテレビやスマホを見ていることがほとんどなので小説をゆっくり読むタイミングというのはほとんど無く、滅多に本を読むことはない。

 

逆に、

スマホでコラムやインタビュー記事を読むのはなかなか好きで、興味がある著名人の考えや思想を知ることが好きだったりする。

 

 

ハライチというコンビに関しては

取り立てて強い思い入れは無い。

いつかのM1グランプリで見かけてから

その後バラエティ番組でよく見かけるようになり、とくにツッコミの澤部さんがよくバラエティ番組に出演している印象だった。

それくらいだ。ネタに関する好みにしても、自分の趣味にドンピシャというわけでもなかった。

 

しかし

彼らがスタートしたラジオの噂を聞いた時

なぜだか少し興味を持った。

「ハライチのラジオは

岩井が意外といい仕事してる」

という話だ。

 

岩井さんは風貌や声の雰囲気から

暗いイメージがあり、ひねくれた発言がキャラクターとなっている。

僕はそういったタイプ人の話が基本好きなので、面白いと聞いてはくすぐられてしまい、なんとなく気になってしまった。

 

聞いてみるとハライチのラジオは、

コーナーをパパッと前半にこなして

リスナーと絡み、

その後は澤部さん、岩井さんの順番で

15分ずつフリートークするという流れだった。

若手のコンビのラジオというとコーナー重視でフリートークは2人一緒が基本だと思っていたので新鮮だった。

 

何週間か各々のトークを聴いていると

岩井さんは陰キャと思われがちだが

学生時代はスポーツも勉強も芸術も長けており

友達が少なかったわけでもなかったという

なのにこんなにひねくれている

強いコンプレックスから成り上がった人間ではない。

ということがわかった。

 

勝手ながら自分はそこにかなり感情移入してしまうことになる。

 

岩井さんの話すトークは独特だった。

あくまで日常の中で起こったことを、

とりたてて内容の誇張はせず、そこに介在する思考や派生して思い出すイメージなどで肉付けしていくスタイルだった。

そこに面白さがあった。

 

オチが無い時は平気でウソをつく。

しかしそのウソは

まことしやかな

「盛り」ではなく、

上記のイメージが先行して現実を食いつぶしたような感覚で、それは誰がみてもウソで、

それが笑いになるスタイルだった。

 

実にスマートで、こじんまりとしていて

僕の心に気持ちよく入ってきた。

 

それから僕は

岩井さんの動向を割と見るようになった。

岩井さんはアニメ好きなのも親近感を感じた

またその反面

オタクの持つ謎の村意識から不快感を感じることもあった。

しかしそのあと、

 

「アニメを武器にするためにある時期から1クール2/3作品は見るようにしていて、3話まではほぼ全作見るようにしている」

 

というのを聞いて、

頭の上がらない気持ちになった。

なぜならそれは

僕が上記の性格上やめてしまったことだからだ

 

そんなこんなで岩井さんが出した本ということで、久しぶりに本というものを買った。

合間に読めるように電子書籍で購入した。

 

本の内容には人間岩井勇気

 

「事件がなく、屈折した過去も無く

平凡な環境で育った常識人なのに、周りがダークな印象を押し付ける」

 

と、自己分析完璧なのにしっかりと世間とのズレを体現した素晴らしい内容だった。

やはりこの人はしっかりおかしい。

 

この本の感想や良し悪しに関してはここでは特に問題ない。岩井さんを好きでない限り読む意味はあまりないだろうし、誰にでもオススメな本ではない。

 

ただ、

この作品から強い影響を受けたのは確かだ。

 

この作品では

すべらない話になるような激動の日々は無い

それでも

基本的な日常に自分のイメージを添えて

「話」に昇華することは可能

ということをしっかり提示している。

 

あーー!

これこれ!

 

僕は読みながら感嘆してしまった

不出来な自分にも

「僕がやりたいのってこれでは?」

と思わせてくれたのだ。

ほぼ同い年のお笑い芸人さんに強く啓発されてしまったのだった。

 

このブログを毎日書けるかは不明だが

昼のFMのパーソナリティとはまた違う

日常を自分のイメージでねじ曲げながら

そういう形でなら書きたいことは山ほどあるな

 

そう思っている。

そうすることでまた音楽を作る時に

歌いたいイメージにも近づくと思う。

僕のやりたいことはいつももう誰かがやっているし、ゼロから生み出せるほど才能が無いこともこの10年でよくわかった。

それでも何かを続けていないと多分腐って朽ちてしまうことは自分でもわかるので、模倣やパロディの新しい形を目指してこれからもやっていきたい。

 

 

そんな小さい期待もこめつつ

この後1時間ほど興奮を冷まし

眠りにつこうと思った。

 

 

ダサくてもやる

今から15年前

僕の住んでいた新潟県で言えばインターネットの普及も今ほどではなかった時代の話だ。

 

インターネットという膨大なツールはまだ世間に持て余され、有象無象の無意味なホームページが大量に作られた時代でもあった。

動画サイトはあれど、YouTubeほどのプラットフォームも無く、Flashのシュールなパロディ動画なんかが一部のニッチなオタクにのみ愛されていたりした時代。

 

新潟という地域で言えば

インターネット機能付き携帯電話は1人一台持っていてもそこまでインターネットは活用できておらず、PCも家に無い。あっても個人用のPCは無いので使い方もイマイチわからない。というような同級生も少なくなかった。

 

そんな時代

今ならクラスのグループラインとかあるのかな

あったとしたらとても入りたいとは思えないけれども、僕はクラスからハブられる度胸も無いスクールカースト低すぎず高すぎずの中途半端人間だったので、きっと入っていたんだろうか。

 

しかしありがたいことにその時代にそんなものは存在しない。その代わりと言っては時代の順序がおかしいが、先述の通り有象無象のホームページが量産されていた時代、例によってこんなことをする輩がいた。

ある日の昼休み、そこそこ仲の良いメンバーにいたクラスの中の上くらいのカーストの男子Bが

 

「このグループのホームページを作ってみた」

と言うのだ。

 

そのホームページというのが

今思えばなんのために作られたのかは不明だがBをはじめグループの仲間たちは

「すげえ!面白そう!」

と沸き立った。

 

沸き立ったのはよかったが、そのグループ内で特に趣味が合い仲の良かった友人Aと私は

「本当に大丈夫か不安」

と、一歩引いて見ていた。

聞いてみるとそのホームページはBBSやチャットルームがあるくらいの、催しの無いものだった。会話に参加しない者からしたら立ち寄る理由も無いような場所だった。

グループ内のホームページといいつつクラス全員アクセス可能で、できたらそこからクラス全体を巻き込んで行きたいというような雰囲気もあった。

 

その日の放課後Aと私で油を売りつつ話をしてみると

「ブログやコラムなんかをやるのもいいな…」

みたいな話になった。

そこまで乗り気じゃ無かった部分も最初はあったが、人とは違う趣味を持っているという自負と承認欲求に背中を押され、さらには痛い「青春ムード」という強い追い風にも煽られ

 

Aとの話合いの結果

ブログ(僕がメインでたまに数名で交代)

コラム(僕がロックの名盤を紹介する、ようはブログ2)

 

というものをやることにした。

 

 

それが僕がブログを通して文章を書くようになった最初の出来事だった。

 

 

 

それから大学へ進学した頃には

誰でも簡単にブログサイトを使ってブログを開設できるようになっており、たまたま出会った部活のメンバーの中にもブログを書いている人がいたりするくらいだった。

 

僕は僕で承認欲求の権化だったので

その時代時代で影響された文体を用いては

「どうだ!」

みたいな痛いブログを展開し続けた。

基本的に飽きっぽい僕だが、こればかりはなぜか6〜7年続いていた。

 

そして大学を卒業しバンド活動を始めてからも、やはりバンドの宣伝の意味も込めてブログを書き続けた。

 

しかし

Twitterが現れてからのことだ、その機会はめっきり減ってしまった。

 

それはそうだ。

より生の声を、その場その場で表現できて、その都度レスポンスがあり、発想やアイデアを文章にある「ぽさ」でラッピングせずにズバーン!出してパッケージングできる。

とても便利だった。

 

僕はブログを書くことをやめた。

 

それから何年か経った。

 

それでも精魂込めてたまにブログをupした。

なぜならTwitterは好きだが自分には向いていない部分もあり、望んだように使いこなせていないと思えた。全世界に向けて発信できるような発想力や配慮が自分に無いと気付いてしまったからだ。

 

短文大喜利が苦手だった。

才能もないし、下手だった。

 

そこまで真面目にTwitterについて考えるか?

とも思わなくもないが、性分がそうさせた

 

本当に本当に

学生時代にスマホが無くて良かったと思う。

先述のブログよりも痛い動画などがインターネットの海に流されていた可能性は高い。

 

ブログに関しては

精魂込めて書いた後、

元々それっぽい文章を書くことだけは自信があったので、書くときは結構頑張って書いたし、そこそこのレスポンスもあった。

 

「文章面白いっすね!」

「また待ってます」

 

嬉しかった。

しかしそのクオリティのものを連発するほどの熱意が持てなかった。

自分に才能は無くても、仲のいい身内でインスタントに盛り上がれるTwitterの方が数倍気楽なのは確かだからだ。

 

その考えの浮き沈みから

僕はブログをたまーに書いて

そのたびにドッと精神力を消費し、

その後またしばらく書かなくなり、

また少ししたら承認欲求から

出戻りする

クソダサブロガーだった。

 

誰のためでもないはずなのに

読者少ないと凹み

誰のためでもないはずなのに

「こんなの誰が興味あんだ?」

と自問自答しては書くのを止める日々

 

そんな中

この一年で大きく変わったことがある

 

東京を離れて1年

バンド活動も停滞

DJ活動も年数本

アニメもあまり見れない

 

つまり

Twitterでの僕のメインタームが失われつつあるということだ。

 

さらに仲の良かった界隈も

みんな会う機会があれば相変わらず最高に楽しいが、環境が変わると温度差が生まれ、共通の話題も減る。何か強い発言を展開するにも勇気がいるようになるし、何よりそういうことにひたすら卑屈になる。

特有のやりとり、特有の言い回し、共通言語

性格上そういう時進んで蚊帳の外へと出てしまうので

俯瞰すぎて

「寒…」

とか思ってしまう程になる

 

とはいえそんなこと思ってもツイートするべきではない。だって何も悪くないのに気を悪くするようなこと言う必要は断じてない。

 

なにより僕は地元にちゃんとした友達が非常に少ない。これが一番卑屈になる要因だったりする。

 

 

そうなってくると、Twitterで発言したいようなこともほとんど無くなってくる。

 

日常の些細なこと、

美味かった料理、テレビ全般、奥さんが好きで見る機会がより増えたお笑い番組、奥さんが好きで見る機会が増えたディズニー映画、歌番組、昔から聴いているラジオのこととか

 

わざわざTwitterに書くのもな…

なんていつも思ってしまう。

 

 

そんなくすぶっている時、

またブログやってみようかな

と思い返す出来事があった。

 

ここまで勢いで結構書き連ねてしまったので

それはまた数日後にでも書こうと思うが

 

日常の些細なこと、

美味かった料理、テレビ全般、奥さんが好きで見る機会がより増えたお笑い番組、奥さんが好きで見る機会が増えたディズニー映画、歌番組、昔から聴いているラジオのこととか

 

あれこれ続かなくて

今更それについて書こうというのは

自分の価値観ではダサいって今でも思う。

 

もう文字のサイズとか使って見やすくしたり、分かりやすさやキャッチーさのために画像添えるのもめんどくさい

 

ただただ

「下町サブカル青年が結婚してからすっかり所帯染みて、今じゃこんなこと考えてます」

 

みたいなのを、少しは面白く書けたらな

 

なんて思う

 

どうせ続くかわからないから期待しないで欲しい。

 

とりあえずまたやってみます

 

 

 

祖父について

suugayuuuuです。

 

年が明けてから

自分の創作活動や趣味を発散する現場を失ったことからなるべく一日置きには書きたいな〜なんて思いつつも、仲間たちの計らいもあってライブやイベントもできて承認欲求が軽く満たされたりしたもんで、ついつい無精が出てしまったわけで全然書いておりませんでした。

 

正直

ブログに向いていない

というより、続けることに向いていない

それは恥ずかしく思います。

 

今回なぜ急にブログを更新したかといえば、

先日私の父方の同居している祖父が他界しまして。

 

急なことであまりの多忙の中ではありましたが、合間に仕事へ出て現実逃避しつつ過ごしておりました。正直悲しみより何より忙しさが勝つような状況ではありましたが、なんとか無事に葬儀を終えました。

 

いやあ…

同居家族って本当に大変だな

(喪主は父が務めたとはいえ)

 

私は祖父が嫌いだった。

自信家で傲慢で

「表舞台に立つ者が人間として上である」

という価値観を持つ人間だった。

 

家族へのモラハラも多かった。

父に対しては罵倒して育ててきたと言って間違いはないだろう。祖母に対しても、愛はあれど正直なところ家政婦のように便利使いしているようにみられる部分もあった。

 

祖父が仕事や人徳で成した功績は多々耳に入っている。本人が語りたがったし、その他の方からもたくさん聞かされてきた。

しかしそんなことはどうでもよく、自分の目に映る家庭での祖父は傲慢そのものだった。

 

祖父が老いていき、免許返納を余儀なくされ、運動不足から中距離の歩行もままならなくなったことを聞いた時、正直言ってざまあみろと思ってしまった。傲慢と怠惰が招いた結果だと思った。

 

それからも

介護される身となってからも

しおらしくしながらも、往年の傲慢さを見せることもあり、家族として大事に思いつつ人間としては軽蔑してきた。

 

そんな祖父に、文句も言いつつも私の奥さんは優しく接していた。祖父が喜ぶような食べ物を与えたり、祖父が喜ぶようなおやつを与えていた。

 

祖父は最期の数日、

大きい急変とはいえないものの食欲もなく

「こんなにも卑しい男が一口しか喉を通らない。情けない。申し訳ない」

と泣いていた。

 

早くよくなればと思いもしたし、

私もまた優しい言葉をかけた。

 

しかしそんな祖父は翌日目覚めなかった。

 

 

祖父の介護を通じる中で

私は何度も「面倒が大きくなる前に早く逝ってほしいものだ」と思ったし、奥さんに口にしたこともあった。

 

しかし

祖父がもう目を覚まさないとわかった時

私でさえ悲しさを覚えた。

奥さんは泣いていた。

 

 

葬儀は慌ただしく、

たくさんの親類が家を訪ねた。

逝去する前にも何度か訪ねてくれていた方々は、家族全体や嫁いできて間もない奥さんにも労いの言葉をくれた。泣きそうになった。

 

介護期間に入ってからはとんと世話にもこなかったくせに、遺族相手にわけしりを語る者もいた。

「貴様に何がわかる」

と何度も思った。

 

顔を出さない者達は

私の知らない昔の祖父を知っている。

それはありがたいことだ。

祖父は人の記憶に残ることを喜びにしてきた。承認欲求の塊だったのだから、私の祖父だなと思う。

 

だからこそそれはありがたいことだ

しかし彼らは今の祖父や今の我が家の有様を何も知らずにわけしりを語り、

あまつさえ毒とも取れるような言動をすることがあった。

 

心底腹立たしかった。

「貴様に何がわかる」

と何度も思った。

 

 

気づけば

私も奥さんも

祖父よりも、祖父を慈しむ上で美味しいところを取るかのように出しゃばってくる奴らへの憤りで満たされた。

 

家族全員で協力してきた介護なのに、私の母だけが尽力してきたかのように言われたり

 

家族全員で協力した結果の最期なのに、処置が悪かったのではないか?などと言われたり

 

介護期間に何の協力もしなかったくせに、いざ葬儀となって花の配色や配置に口を出してきたり

 

辛いながら不器用ながら協力してくれてきた父を悪く言うババアもいた。

 

 

「祖父の今を知らない奴が、祖父の過去や通説をダシに遺族にマウントを取る」

 

気づくと祖父が嫌いだったこととかどうでもよくなって、柔らかい気持ちになっていた。

 

その反面

そんな遺族への労いも無いクズに

形ばかりの笑顔と感謝を表現しなければならないこの 葬儀 というものに

 

心底心を痛めた数日間だった。

 

こんなにも疲弊して、

けれども私は最終的に祖父を嫌いになれなかった。死は人を美化させるが、そうだとしてもやはり嫌いないことに変わりはなかった。

 

冥福を祈りつつ

本当に大変だと思う気持ちを

書きなぐりたかったので書いた。

 

ありがとう祖父

立派になれるよう頑張ります。

バイバイ

 

 

 

今更ゆめにっきをプレイした

どもsuugayuuuuです。

uの数懲りずにいうならば2×4です。

これは今後なんらかにsuugayuuuu名義で出向く場合に名前を書き間違われないために言っています。かっこつけではない。

 

私は普段あまりゲームをしない。

最新のゲーム機を買うほど裕福ではない

というのもありますが、

ゲームに没頭すると没頭しすぎて社会人としては痛い目を見ることが確実なため…というのもありあまりやってこなかった。

 

実際私の半生の伴侶たる個人的愛作のサガフロンティアを久しぶりにプレイした昨年も、国家試験を控えながらも長らく没頭してしまい、かなり不毛な時間を過ごしたことが記憶に新しく、正直周りの方々がゲームを楽しそうにやっているのを若干羨ましく思いながらも、ひっそりとそれを眺めるばかりであった。

 

とはいえそんな私も昔はゲームに没頭する毎日だった。モンスターファームビートマニアアークザラッド2、サガフロンティアFF6、7、8、9、10、10-2…結構やった。いやゲーム好きな方はみんなもっとやってるんだろうけど

(といってもFFシリーズは全て借りてやっていたので実際に持っていたのはサガフロンティアモンスターファームくらいか…)

スマッシュブラザーズのようなパーティゲームは死ぬほど嫌いだった。

 

致命的にヘタクソだったからだ。

 

1ヶ月ほどハードごと借りて練習したが、こと対戦となるととんでもなく弱かった。「自分が弱くてもみんなでやれば楽しい」なんていう考え方もあるが、スポーツでも勉強でも中途半端だった自分からすると屈辱の上塗りでしかなく不可能だった。

 

そんなゲーム歴の私だが

なんとなく手持ち無沙汰になった最近

ずっとプレイしたいと思っていてまだ触れていなかったゆめにっきのことを思い出した。

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ゆめにっきはRPGツクール2003で作られ有名になったPCゲームで、存在は当時バイト先のメタル好きな先輩から紹介されたことがあったり、好きな人が周りにもちらほらいて、概要は聞いていてかなり気になっていた。

 

2016年からアプリ版も出ていて手が出しやすかったのもあり、先月ニンテンドースイッチでリメイク版が発売されたという話もあり

 

せっかくだからやってみるか

 

と思ったのでやることにした。

 

ゆめにっきとは、ひとりの少女がひたすら夢の中を冒険していく内容だ。これといったストーリーがあるわけでもなく、セリフもないため手探りしていくしかない。

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夢の世界には12の扉があり、それぞれ様々な世界に繋がっている。

 

各種イベントもあるが、そこで手に入る

「エフェクト」という変身アイテムを集めるのが主の目的である。

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これを集めきることで一応エンディングを見ることができる。

 

それがゴールなのか?

それはよくわからないのだが、一応エンディングがある。

 

この作品の特徴としては、

「死」や「狂気」を連想される内容がとても印象に残った。特に衝撃を受けたのは、

「しんごう」という時間を止める能力。長い直線道路に横たわる遺体を調べた時に手に入るのだが、考えてみると

 

交通事故で亡くなったと思われる人の遺体を調べる。

時間を止めることができる

「しんごう」の能力が手に入る。

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いやいやいや、こわいこわい…

どんな夢だよ…

 

他にも

鳥のような頭をした敵(?)に触れると別世界の出口のない狭いスペースへと飛ばされてしまう

とか

地獄と呼ばれる空間が存在する

とか

夢の中に自分以外の普通の人間がほとんど出てこないという所とか…

 

12の扉の中はどれも破茶滅茶な空間だが、

もれなく言えることはどの空間も悲しげで、かなり異常性があるということだ。

つまりこれが脳内にある人間の心理状態とは…?

 

主人公の心にあるものとは??

 

作中でも一切語られることはないが、

最後までみると思うものがある。

 

ゆめにっきは様々なところで紹介されているし、説明が少ないことからたくさんの人が考察をネットに上げている。私風情が今更ここで考察を書くつもりはさらさらないが、プレイして素晴らしいな〜と思ったところは

ドット絵のチープさにより閉じ込められたすごい情報量と、心に残るBGMと、独特のセンスの素晴らしさ。

 

とにかくセンスよすぎると思ったな…

 

正直全体的に悲しい空気や狂気の漂う作品だけど、なんだかどうしてこうなってしまったの?と考えずにはいられない考察した皆さんの気持ちがとてもよくわかる。

 

終わったなおモヤモヤするし、

けどこれからプレイする方だれかしらのためにもなんかここであんまし言いたくないし…

 

とにかく複雑なのだ。

 

 

けどそんなゆめにっきの世界観がとても素晴らしく、まさに名作だなあ…

と複雑なのだ余韻に浸るのだった。

 

だれかプレイ経験した方、今度お話ししましょう…

 

 

 

ゆるく生きたい。布団で死にたい

ども。

suugayuuuu です。

uの数どうでもいいねもうね

 

 

気づけば3月…

前回「冬に聴きたいアルバム」とか言ってたのにもう花粉飛びまくりの春が来てしまったのだからなんとも言えない気持ちだ。

 

こっちからしたらあれからアホみたいに仕事が忙しくなり、結局数回卓に向き合う機会を得たが、Windows10とトラクターが喧嘩して読み込まなくてさらに時間使って終わった。私が卓で趣味としてのDJを楽しめる日はいつになるんだろう…

いつになるんだろう…

興味をいまだに持ってくれる人が、待っていてくれる人が仮にいるんならば、待っていてほしい。必ず何か出します。排泄物以外の創作物を。

 

まあそんな中ですが…今年も各ロックフェスのラインナップが発表された。あっちもこっちも大盛り上がりな雰囲気で最高なんだけど、今年はどうしてもフジロックに行きたくて。

 

だから今回はフジロックに出演するバンドの中から大学時代から大好きなこのアルバムを紹介します。

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suugayuuuu memorial disk vol.8

artist: CAKE

title: Comfort Eagle

since: 2001

 

CAKEを紹介してくれたのは以前にも何度かこのブログに登場しているレコードバーのマスターだった。

当時大学一年生。フジロック2005に行くことを伝えた時

 

「今年はCAKEが出るから是非見て欲しい」

とマスターはそう言った。

 

当時イギリスのロックの歴史ばかりに没頭していて、まだUSインディロックに詳しくなかった自分が

 

ローファイ

と出会ったのはこれが入り口だったのかも。

 

ローファイと一口に言っても色んなタイプがあるし、PavemantもセバドーもDaniel Johnstonも全部別方面から大好き。そんな出会いのきっかけこそがCAKEのこのアルバムだった。

 

渋い声なのにゆるーいテンション。

レッドホットチリペッパーズ、システムオブアダウン等カリフォルニア州出身のバンドに見られる独特の叙情的なメロディでありながら一貫して腑抜けたサウンドが最高。

トランペットのプヮ〜〜〜の音が鳴り響きゆるい雰囲気ながら、どこか曲者な雰囲気をずっとまとっているのがCAKEの魅力。どのローファイバンドよりも土臭く、どのローファイバンドよりもおっさんくさい。しかしそこがよい。

 

正直最初聴いて、ライブを見たときは

当時激しい曲でモッシュしたい盛りの若僧としては

「何が楽しいのか?」と疑問に思ったりしたけど

 

「シ〜プ ゴ〜タ ヘブ〜ン

ゴ〜ツ ゴ〜タ ヘ〜ル」

(羊は天国へ、山羊は地獄へ行った)

 

という歌のシンガロングで完全にハマったのをよく思い出す。

 

同時にその時、道を通るフジロック参加者全員に

「ワッショイ!」と声をかけ、ある一定のタイミングで

「ガンバッテ〜〜イキマッショォイ!」

と叫ぶ外人と出くわし、たまたま私のタイミングで

「ガンバッテ〜〜イキマッショォイ!」

が来てしまったことも思い出す。

 

 

あとCAKEは何よりCDのジャケがクソかっこいい。

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このファンキーな雰囲気…まさにジャケ通りの楽曲が詰まっている。正直大好きすぎて至る所でこのCAKEのCDを流してきたが、未だに誰にも「これ誰のCDですか?」と注目してもらったことがない。

 

けどこのある種チープさ故に唯一無二感がなんとなくあったり、派手なギターサウンドなどで聴き疲れしないところにもある種の魅力がある。

 

正直さっきからCAKEを「ローファイ」

と呼んでいるが、実際ローファイというくくりでいいのか?

(いまさらローファイヤクザを怖れ始める私)

 

やっぱ怖い。

ローファイって何だ?

このままだとローファイヤクザに

Pavementを聴いてから抜かせこの野郎」

「セバドー!セバドー!」

「スカム!(クズ)」

とか言われちゃう…

 

怖いので改めて調べることにした

 

 

こんな記事もありますのでご興味を持たれた方はどうぞ…

【ジャンル解説】ローファイ(Lo-Fi) | LyricList(りりっく りすと)

 

実際にローファイっていうジャンルは

  ローファイとは、もともとは不明瞭な音質を指す表現である。転じて、宅録などの安物機材やヴィンテージ機材で録音するアーティストや、いわゆるヘタウマ系のアーティストを指すジャンルとなった。

 

とある通り、どちらかといえば

80年代の煌びやかなスタジアム級のロックバンド達の音楽に反抗したか、もしくは単純に金銭的にそれが叶わなかったバンドたちが

 

ハードコア、エモ、グランジ、ポストロック、シューゲイザーという形で表現したオルタナティブロックの流れの中に現れた。

(当時の私の頭ではこの時代のロックはメインストリーム、オルタナティブ、パンクの3種類でしか分けられていなかったが…)

 

ハードコアのようなサウンドながらそこに一切のメッセージや思想は無く、グランジのような荒々しさながらどこか間が抜けており…

そんな曖昧なジャンルをローファイと名付ける所以になったのがまさにPavemantというバンドで

 

私のようなこじらせた若者が行き着く音楽としてはとても素晴らしかった。

 

メインストリームに媚びず、かといってダーク方面で尖りすぎて「痛い奴」にもならず、「この雑さがいいんだよ…」みたいな

 

ある種のジャンクフード感がたまらない

 

日本ではジャンクフードな音楽としてパンク調な雰囲気があるけど、雑さと病みつき感でいえば断然こっちだと思うんだよな…個人的には。

 

まあローファイ本流の話はそんなもんで

 

 

私の歴史は

Nirvanaを通って90年代イギリスのダークヒーロー達や70'sパンクへと足を進め、90年代を今に振り返り、70'sパンクはそのまま遡って結果The Velvet Undergroundやボブディランを聴く結果となったのだけれど…

そんな流れの中に

Pavement率いるローファイはうっすらとしか現れず。

 

そのマスターが紹介してくれたCAKEはまさに新しいジャンルへの入り口で、

 

CAKE自体がローファイかどうか

 

ではなく

私はCAKEきっかけでローファイと出会っていった。

 

ということを言いたかった。

結果正直Pavementを神のように崇めているし、20代中盤以降Usインディにどっぷりハマるきっかけにもなるわけなんですが…

 

まあ今回はCAKEのことなので…

 

そんなわけで観られるかわからないんですが、今年のフジロックでCAKEを観られることをとてもとても楽しみにしております。